名古屋市北区の学習塾、適塾。適塾の卒業生たちは毎年それぞれの志望校へと進学していきます。

適塾の由来

適塾の沿革

適塾の盟主は当代きっての蘭方の医者、学者であって、教育者でもある緒方洪庵(1810~1863)です。

1838年(天保9)から1862年(文久2)の25年間大阪・船場において塾を開き若き人々の教育にも多大の精力を注いでいました。その力量を知る幕府は1862年(文久2)、江戸に召しだし奥医師とすると同時に西洋学問所の頭取としました。洪庵不在の時期も義弟や子息、門下生達は塾を守り、さらに分塾をするほどに発展しましたが、明治新政府の教育制度の整備と共に発展解消し、大阪医学校、府立医科大学、さらには大阪大学へと発展し、今日にいたっています。

適塾は全国から駆けつけた塾生にあふれ、塾生の中には福沢諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲などがいます。

洪庵の業績

緒方洪庵は江戸時代末の蘭方医として、また蘭学紹介の第一人者と仰がれました。最新の医療の知識を紹介するため多くの蘭書を翻訳する一方、自らも多くの著書を残しています。

そんな中で洪庵にとって「扶氏経験遺訓」(30巻)の翻訳は終生の出版大事業でした。これはドイツの医師フーフェランドの内科学の著書の蘭語訳書を日本語に翻訳したもので、日本の内科学の発展に大きな貢献を果たしました。特に巻末の「医戒の大要」は12カ条の訳文として整理され「扶氏医戒の略」として有名です。その第一条には「人の為に生活して己のために生活せざるを医業の本体とす」とあるように、適塾の指導の第一義とされ、現在でも医の倫理書として高く評価されています。

また、現在の医学ではあたりまえの病理学も西洋ではやっと台頭してきたときで、当時の日本には理解することは困難であったが、洪庵の著した「病学通論」は病理学を体系化し紹介せんとした総論書で、当時広く読まれた名著として知られています。

適塾の教育

適塾は元来 医学・医療を教育する塾でした。青雲の志熱き若者である塾生たちは関心の赴くところを制限されることもなく各種の本をどん欲に読んだようで、その基礎となったのは、適塾で行われていた蘭書の会読会でした。判らぬ言葉の意味を探して、適塾に一冊しかなかったヅーフ辞書を奪いあうように利用しました。そのため、辞書をおいた部屋はヅーフ部屋と呼ばれ、明かりが消える間がなかったといわれています。 塾生たちの勉強ぶりはすさまじかったようで、福沢諭吉も自伝の中で「凡そ勉強ということについてはこのうえにしようもないほどに勉強した」と述懐しているほどです。 このような自由闊達な塾風が、幕末から明治初期にあって各分野で活躍する多様な塾生を数多く輩出したのです。

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